著者は戦後日本のタテマエとホンネという考えを、その背後にあるニヒリズムを隠蔽する欺瞞装置と考え、その由来を日本近代以来の「内と外の分断」、近代全体がもつ「親密なるものと公共性」、さらには日本の古代人の屈服の姿から掘り起こす。言葉とは信念を伝えるものなのだけれど、日本ではこの言葉が信じられていない。日本にはこの言葉が力をもつ空間=公的なものがないからだ。著者が本書でなしたいことは、言い古されたこの「公的なもの」を、僕らが初めて聞いたことのように新たに語り直すことなのだ。カント、マルクス、福沢諭吉の公-私観を経て、戦後日本人はいかに語ることができるかの方向を示す。

題名からイメージしていたものとは異なっていて、ホンネとタテマエ、公と私に関する内容だった。ホンネとタテマエは対立するものであるかのように日本人全体が洗脳されているが、実は敗戦によって出てきた二重思考で、どちらも根っこの部分が同じなのである。

要は、陰と陽ではなくて表と裏であって、ひっくり返す事で立ち位置が逆転出来るという本質が見えてくる。こうしてみると、タテマエだけでなくホンネの部分も極めて胡散臭いよなぁ。

結局、日本人に無いのは思想ではなくて、節操なんじゃないのか? 欧米にもダブル・スタンダードというものがあるけれども、日本人は拙いから、そこまで上手く使いこなせてないからね。

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